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朗読台本

【朗読台本】私の死にたいを言語化してみた【10分】

  • 推定5~10分ほど。

私の死にたいを言語化してみた/筆先ちひろ

私という人物は生きたいか、死にたいかで言えば、死にたいに傾く人間であり、死にたいか、生きたくないかで言えば、生きたくないに傾く人間である。つまるところ、死のうでも、死にたいでもなく、生きたくない人間なのだ。

しかし、不幸だという感情が強いわけでもない。どちらかといえば、こんなものだろうと諦めに似た感情が強いだけであり、それを不幸だと捉えているわけではない。

10キロ先まで皆が知り合いだというような小さな田舎に生まれ、それなりに不自由なく暮らしてきた。いじめられることもなく、友人関係に苦労もしていない。頭も悪くなく、容姿も際立って悪いわけでもなく、太ってもいなければ、運動ができないわけでもない。要領も悪くなく、仕事をしていても物覚えはいいし、何をやってもある程度の成果を出すことができる。時間があれば旨いものを食べ、旨い酒を飲み、それなりに楽しく生きてはいるのだろう。大きな不満はない。が、ただ漠然と、生きたいと思う理由が見当たらない。

日本という国が合わないのではないかと、海外に飛び出したこともある。しかしやはり、思考は変わらなかった。何か漠然と、ただ生きるということそのものが肌に合わないのである。

もしやこの世界の住人ではないのではないかと、頭の飛んだファンダジー思考を若い頃は展開したものだ。当然のことだが、中国神話に現れる伝説上の生き物である麒麟も、魔法学校からの手紙も、それらしい迎えは何一つとして来なかった。実に残念なことである。

どうしてこんなにも面倒な生きるという活動をしなければならないのか。生きたくないのに死ねもしない。なんとも不自由で、情けのない生き物である。

終了ボタンを差し出され、それを押せば何事もなかったかのように終われるのなら、迷いなく押すだろう。しかし実際はそんなものはなく、痛い思いをするか、苦しい思いをするか、そうしなければ終わることはできない。それは嫌なのだ。わがままだと笑うのならば勝手に笑えばいいが、痛いのも苦しいのも面倒なのも、私は嫌なのだ。生きていることは面倒で嫌だし、死ぬことは痛く苦しいので、嫌なのだ。

それつまり、生きたいということだろうと思うかもしれないが、そんな簡単な話ではない。私は、明らかに生きたくはないのだ。言っておくが、病んではいない。当然だろう。死にたくはないのだから。私はあくまで、生きたくないのであって、死にたいわけではない。

なにか頭のおかしなことを言っているように聞こえてくる気もするのだが、皆、生きたくて生きているのか、不思議なことだ。痛いのも苦しいのも嫌だから、仕方なく死なないだけであって、皆、生きたくないのではないか。人間という種の存続上、そう遺伝子に組み込まれているだけであって、皆元より、生まれた瞬間に生きたくないと思うものではないのか。私は種の存続に抗う何かなのかもしれないなどと、ふと考えてはみたが、どうやら若い頃の頭の飛んだファンタジー思考はまだ健在のようである。

これをあと何十年と続けていくと思うと、ぞっとする。この先あと何十年を生きようが、私の望むものはこの生の中に、どこにも存在しないのだ。私が私のことをそう言っているのだから、これは間違いの無いことなのだ。他人にこの感情が分かるはずもなく、それは至極当然のことである。故に、そんなことはないと軽率に言うその口を、私は心底軽蔑し、心底嫌っている。お前こそ早く死んで仕舞えばいいのにと。

ところで、死んで仕舞えばいいとは思うが、殺してしまおうにはならないし、実際に死んでしまえばそれなりに悲しくもなるだろう。なんとも、不自由で情けのない生き物である。

今日も全く、生きることが面倒であり、今日もまた、私は生きたくないを積み重ね、そうして生きていくのだ。しかしながら、誰かに殺されるのは全くもって御免だし、それつまり、私の死にたいはやはり、死のうでも死にたいでも殺してくれでもなく、生きたくないということなのである。

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