残される方が辛いから、だから前を向くために、
僕は君を忘れて生きていく
〇文字数:約9000文字
〇推定時間:30~40分
〇登場人物:1:1
鈴木颯太(そうた):34歳。売れない脚本家。言葉遣いが少々粗い。
鈴木朝美(あさみ):33歳。バリキャリ。家事全般嫌い。合理主義。
〇その他 0⇒ト書き
物を落としたり、メモ帳をめくるシーンなどがあります。
こちらは、「美丘」、「大恋愛」のオマージュ作品です。
作者解釈など以下にまとめました。興味があれば。
十月の朝顔/筆先ちひろ
0: 季節・秋。
0: 颯太、朝美。安い居酒屋。
朝美:魚? 切り身買ってくればいいじゃん?
颯太:いや、自分で捌けたら料理の幅が広がんだろ?
朝美:んーまぁそうだけど。
颯太:いや、顔が全然納得してないけど。
朝美:うーん……。
颯太M:夏と秋の間。
颯太M:あれほど五月蠅かった蝉の声もすっかり聞こえなくなった9月の終わり。
颯太M:朝美とは友人の紹介で知り合った。
颯太M:金の無かった俺は、彼女が嫌がらないのをいいことに、安い呑み屋に良く誘っていた。
朝美:ねー、自分のためにご飯作っても仕方なくない?
颯太:1日1食は絶対取るだろ? 美味いもん食った方がいいじゃん。
朝美:「美味いもん」なら外食すれば、食べられるじゃん。
颯太:そーいうことじゃねんだよ……。
朝美:だってほら! ここのお店も美味しいよ?
颯太:うん……。
朝美:たこわさに、塩辛に……せんべろ嫌い?
颯太:嫌いってわけじゃねーけど……。
朝美:んーもぉ、うるさいなぁ。はいはい、かんぱーい!
颯太:乾杯何回目だよ。
朝美:2回目。
颯太:そういうこと聞いてんじゃねーの。
朝美:じゃあ何? 何が聞きたいの?
颯太:んー、いやさ、お前仕事場青山だろ?
朝美:うん。
颯太:こんなとこじゃなくて、赤坂とか表参道とか、それこそ六本木で飲んでた方が「美味いもん」食えんじゃねーの?
朝美:ばっかだなー。ホント分かってない。
颯太:はぁ?
朝美:もー、怒んないでってば。
颯太:別に怒ってねーけど。
朝美:あっちの方で飲むこともあるけど、どうせ仕事の付き合いだし。
颯太:うん。
朝美:それにあの辺高いだけで、見た目オシャレに盛り付けてればいいと思ってるお店多くて。味なんてぜーんぜん。
颯太:ふーん。
朝美:安くて美味しい店で、ぐだぐだ、どーうでもいい話してるほうがずっと楽しいし。
颯太:俺とはどうでもいい話なわけですか。
朝美:そ。くだらない、どーうでもいい話。
颯太:少しくらい否定しろよ。
朝美:ほんとばか。どうでもいい話できて、無言も気まずくなくって。最高の褒め言葉じゃん。
颯太:そういうもん?
朝美:そういうもん。
朝美:ってか何、今日やけに突っかかってくる。口うるさい男はモテないよ?
颯太:料理しねぇ女に言われたくねぇよ。
朝美:はぁ? 失礼な! 相手がいれば最低限の料理はしますー!
颯太:例えば?
朝美:肉じゃがとか。
颯太:ほぉー。
朝美:ハンバーグとか。
颯太:おー意外。
朝美:あと餃子とか! 一緒に作ったりもしたよ?
颯太:でも魚は?
朝美:捌けません!
颯太:(笑う)。何? 魚の目が怖いとか女子らしいこと言うの?
朝美:そーいうの言ったほうが可愛い?
颯太:試しに言ってみ?
朝美:……「お魚の目がこっち見てるでしょ? だから捌けな……」
颯太:かんぱーい!
朝美:ちょっと最後まで聞いてよ!
颯太:いや聞くに耐えなくて。
朝美:もー、ほんと失礼。
颯太:そーやってふて腐れる反応は可愛いんだけどな。
朝美:なにそれ。
颯太:さぁねー。ほれ、かんぱーい!
朝美:乾杯の用途ちげーわ、ばか。
朝美:ってかねー私が料理しないのはちゃーんと理由があるんですー。
颯太:ふーん。左様でございますか。
朝美:……おい、理由聞け。無視して酒飲もうとすんな。
颯太:うっせーな。つーか、酒こぼれるわ。どうせ聞かなくても話すんだろ?
朝美:1日って24時間でしょ?
颯太:ほら、聞かなくても話す。
朝美:やらなきゃいけない事と、やりたい事なんていっぱいあるじゃん?
颯太:まぁ確かになー。
朝美:だから私は料理を捨てた!
颯太:なにその啓発本みたいな言い方。
朝美:んもー! ばかにすんな。
颯太:はいはい、すみませんでしたー。
朝美:颯太だって睡眠時間削ってやりたい事やったりするでしょ?
颯太:まぁなー。
朝美:それと一緒。
颯太:ん?
朝美:自分一人で食べるものなんて、出来合いの総菜でいいもん。
朝美:いいかね、颯太くん。時間とは何人にも平等で、そして有限なのです!
颯太:なんかいいこと言ってる風。
朝美:イイ事言ってるの!
朝美:やらなきゃいけない事、やりたい事なんていっぱいなんだから、
朝美:やらない事をちゃーんと決めて合理的に生きなきゃ。
颯太:出た。超合理主義。
朝美:なによ。合理主義が悪いみたいに言うな。無駄が嫌いなの。
颯太:別に悪いって言ってねーよ。つーか、食う奴いればちゃんと魚も捌くの?
朝美:相手による。
颯太:結局捌きたくないだけじゃねーか。
朝美:……バレた?
颯太:バレバレ。
朝美:まーでも魚捌くかは別として、食べる人いればそれなりに料理するよ。出来ないわけじゃないし。
颯太:んーじゃあ、俺がお前のまずーい料理、食ってやろうか?
朝美:はぁ?
颯太:はぁ?ってもうちょっと可愛い反応欲しいんですけど?
朝美:可愛い反応って、「まずーい料理」なんて言われてできるわけないし。
朝美:てか、もしかして私口説かれてる?
颯太:さぁなー。
朝美:さぁなーって何もう。……んーでも颯太だったら私もっと料理しなくなる。
颯太:なんでだよ。
朝美:えー、だって颯太の方が料理できるもん。
颯太:教わろうとかそういうの無いわけ?
朝美:ない!
颯太:いや、潔すぎだろ。
朝美:(笑う)。私ってスーパー合理主義じゃん?
颯太:だからドヤ顔やめろって。
朝美:合理的に考えた結果、颯太が料理した方が……。
颯太:人の話聞く気なしかよ。
朝美:ない。
颯太:はぁ?
朝美:颯太が料理した方が美味いし、早いし、その間に私が稼いだほうがいい。
颯太:おい、ヒモみたいに言うな。
朝美:言ってないし。
颯太:言ってるわ。
朝美:いや、颯太ちゃんと働いてるじゃん。でもー。ほら、颯太は売れない脚本家だから。
颯太:うるせー。(笑う)
朝美:まぁ私はファンだけどね。1番最初のやつ、あれ好き。
颯太:女が死ぬやつ?
朝美:そう。あれ、タイトルなんだっけ?
颯太:『十月の朝顔』
朝美:あ、それそれ! 朝顔の朝と、朝美の朝。一緒だからなんとなくで見たんだけどさ。あれの最後のほうのー。
颯太:やめろって、恥ずかしいから。タイトルださいってクソほど叩かれたんだよ。
朝美:えー、私は好きだったけどね。
朝美:まぁ、叩かれるだけ見てくれてる人がいるってことでしょ。ファンメールくれる人とか、いないの?
颯太:一応一部のファンからはきてるけど。
朝美:ふふ。そっか。もっとファン増えたらいいなー。颯太の良さが世に広まればいいのに。
朝美:あー……ねぇ、私たちって結構合理的じゃない?
颯太:ん?
朝美:料理しないキャリアウーマンと、料理のできる売れない脚本家。
朝美:ご飯作ってくれたら、あとは好きに書いてていいし。私働くから。
颯太:なにこれ、俺口説かれてる?
朝美:さぁねー。
朝美:(笑う)朝はね、だし巻きと味噌汁ね!
颯太:何? だし巻き好きなの?
朝美:うん、飲み行くとだいたい頼んでるでしょ?
颯太:あー確かに。甘いのとしょっぱいのどっちがいいの?
朝美:甘いの。
颯太:残念。俺しょっぱい派。
朝美:えーじゃあ、たまに甘いのでいいよ。我慢する。
颯太:我慢って……。つーか毎日だし巻きはさすがに飽きるだろ。
朝美:そう?
颯太:そうだろ。(笑う)
0:間。
颯太M:我ながら酷い口説き方をしたと思う。
颯太M:俺の妻は合理主義で要領がいい。稼ぎも文句なし。あー、それから、好きなものは甘いだし巻き卵。
颯太M:料理をなかなかしたがらない点を含めたとしても、売れない脚本家の俺には勿体ないような人だった。
颯太M:出会ってから1年のスピード婚。
颯太M:そう、何がどうなってしまったのか、
颯太M:料理の出来る売れない脚本家は、料理をしないキャリアウーマンを射止めてしまった。
0:間。
0: 結婚1年目。季節・秋。
0: 颯太、朝美、自宅。料理中。
颯太:卵めっちゃかき混ぜて。
朝美:んで片栗粉?
颯太:直で入れんなって。だしと合わせて後から入れんの。
朝美:めんどくさ……。
颯太:あのね、その面倒なのウマいって食ってるのどこのだれよ。
朝美:はいはーい、ここの私。
颯太:威勢よく言うなよ。
朝美:あ、ねぇ! 甘くしよ! 甘いの食べたい。
颯太:いや、たった今白だしに片栗粉溶いたじゃん……。
朝美:あ、そっか。じゃぁ、明日甘いのにしよ?
颯太:誰が焼くんだよ。
朝美:颯太。
颯太:ですよねー。
朝美:へへへ。あっ……。
颯太:今度何?
朝美:会社に電話すんの忘れてた。
颯太:休みなのに?
朝美:んー、なんかね、資料どこですかー? って連絡入ってたから。
颯太:相変わらずご多忙で。いいよ、あと焼いとくから。
朝美:あーだめだめっ!
颯太:はぁ?
朝美:私が焼く!
颯太:ふ……。
朝美:何? なんで笑ったの?
颯太:いや、昔は教わる気ないって言いきってたのになーって。
朝美:教えを乞う私。可愛いでしょ?
颯太:うん。可愛い。
朝美:ちょ、なに、気持ち悪い。
颯太:照れた?
朝美:照れてない! もー、卵混ぜて待ってて。
颯太:はいはい。早く電話してきな。
朝美:うん、ありがとー。
颯太:混ぜすぎてメレンゲなる前に戻ってこいよー。
朝美:メレンゲは白身で作るから、それはメレンゲにはなりません。
颯太:お、よく知ってんじゃん。
朝美:知識だけならちゃんとある。
颯太:おー。渾身のドヤ顔のようですが、髪もぼさぼさでノーメイク。20点。
朝美:んもー失礼。
颯太:早く電話かけてこいって。
朝美:はーい。
0:間。
颯太M:結婚1年目。この時は、今がずっと続くと思っていた。
0: 朝美、スマホを落とす。
朝美:……ッ。
颯太:あーぁ、画面割れてない?
朝美:保護シートヒビ入った。最悪……。
颯太:まぁ保護シートだけなら2、3千円で済むっしょ。
朝美:……。
颯太:どした?
朝美:なんかうまく力入らない。
颯太:左手?
朝美:うん。
颯太:大丈夫? 卵混ぜすぎて痺れた?
朝美:そーかも。
颯太M:困り顔で笑う彼女を呑気に見ていた。
颯太M:それから二月(ふたつき)。乾燥した空気が肌を刺す冬の夜。
0: 季節・冬。
0: 颯太、自宅。朝美、駅前。入電。
朝美:もしもし颯太、今……どこ?
颯太:どこって、家だけど?
朝美:ね、帰り道分かんなくなっちゃって。
颯太:はぁ? 今どこ。
朝美:駅。
颯太:駅ってどこの?
朝美:……練馬。
颯太:はぁ? 最寄りじゃん。
颯太:何? 酔ってんの?
朝美:だよね、酔ってんのかな私。
颯太:……どした? 大丈夫?
朝美:わかんない。
颯太:迎え行くから、ちょっと待ってて。
朝美:うん……。
颯太M:彼女は店に入ることもなく、小さな手を氷の様に冷たくしながら俺を待っていた。
颯太M:異変を感じるには十分すぎた。
颯太M:大きな病院を紹介され、呆れるほどにたくさんの検査をして分かったことは……。
朝美:あーもしもし、お母さん。元気?
朝美:……うん。今度颯太とそっち、ちょっと帰るね。
朝美:んー? 何もないよー。
朝美:んーうん。うん……。
朝美:なんかあったでしょって、何で分かるの……。やっぱすごいね、お母さんって。
朝美:……私ね、……私、死んじゃうんだって。
朝美:わかんない、身体動かなくなって、……うん。
朝美:色々忘れて。……それで死んじゃうって。
朝美:あと、2年か、もしかしたら1年だって。……なんで?
朝美:なんか悪いことしたかなぁ……。
颯太M:呆れるほどにたくさんの検査をして分かったことは。
颯太M:発症から1,2年で確実に死に至る、そんなクソのような病気に彼女が選ばれたということだった。
颯太M:医者の話では、来年の冬は寝たきりか、もしかすれば冬を迎えることもないらしい。
0:間。
颯太M:出逢いと別れに世間が浮かれる春。
颯太M:彼女は仕事をやめた。
0:間。
0: 季節・春。
0: 颯太、朝美。自宅。
朝美:ねー。どっか旅行行きたい。
颯太:どっかってどこ?
朝美:イギリス?
颯太:海外か……。
朝美:2026年完成なんでしょ?
颯太:何が。
朝美:えっと……んと。あれ、サクラダ……。
颯太:サ「グ」ラダ・ファミリアね。
朝美:そう、それ!
颯太:ちなみにイギリスじゃなくスペインな。
朝美:んじゃスペイン行きたい。きっと完成は見れないし。
颯太:そういうこと言うなって。
朝美:……スペイン行ったら、旅行記書いてみようかな。
颯太:いいんじゃん? 自叙伝的な。
朝美:書き方教えてくれる? 颯太せんせ。
颯太:気が向いたらね。
朝美:えー気向けてよ。
颯太:高く付くよ?
朝美:金ならある!
颯太:いらねーよ。ばか。
朝美:高く付くって言ったのそっちでしょ?
朝美:あ、ねぇ。すごい今更だけどさ、なんで書いてるの?
颯太:脚本?
朝美:うん。
颯太:うーん、なんかストレス発散みたいな。
朝美:えーでも書いてるとき機嫌悪くなってるじゃん。ちょー低気圧纏ってる。
颯太:そんなに?
朝美:うん。
颯太:ごめん。
朝美:まぁ、慣れたから別にいいけど。
颯太:なんかさ、書いたら忘れるんだよねー。もやもやしたのとか、後悔とか色々。
朝美:えーじゃあ自叙伝書いたらスペイン行ったのも忘れちゃう?
颯太:それとこれとは別。
朝美:そっか。
颯太:うん。ん? なにそれ?
朝美:んー? やりたい事リスト。「人生の100のリスト」みたいな。
颯太:あーなんか一時期そんなの流行ってたね。
朝美:でたー、流行モノに興味がない脚本家。
颯太:はぁ?
朝美:流行モノは流行るだけの理由があるんだから、ちゃんとチェックしたほうがいいですよー?
颯太:ご忠告どーも。ふ。
朝美:何? 馬鹿にしてる?
颯太:いや、だし巻き卵にチェック入ってるから笑った。
朝美:あー、もうね上手に焼けるようになったからチェック入れた。
颯太:そっか。ちょっとペン貸して。
朝美:ん。……えー三枚おろし?
颯太:うん。魚捌こうよ。
朝美:やだ。切り身買えばいいし、颯太が捌くからいい。
颯太:そこだけは頑な(かたくな)なのな。
朝美:魚の目がこっち見てて怖いの。
颯太:はいはい。
朝美:なにその言い方。
颯太:どーせ面倒くさいだけだろ。
朝美:バレた?
颯太:バレバレ。
朝美:……ね、私ねー、実は幸せ者なんじゃないかなーって思って。
颯太:何、急に?
朝美:だってさ、朝いってらっしゃーいってしたまま、事故とかでもう会えなくなっちゃう人もいるわけじゃん?
颯太:うん。
朝美:私、準備期間もらっちゃった。
颯太:……。
朝美:料理もちょっとずつコツ教えてもらってるし。これで一人でも大丈夫。
颯太:普通逆。
朝美:あはは。そっか。んーじゃぁ、颯太が一人でも思いっきり書けるように、お金いっぱい残しとくね。
颯太:ヒモみたいに言うな。
朝美:言ってないし……ってこんなやり取り昔したね。
颯太:うん。
朝美:……逆だったらよかったのになー。
颯太:ん?
朝美:私が残される方だったらさ。きれいさっぱり忘れて、新しい男捕まえて生きるし。
颯太:はぁ?
朝美:ほら、私、超合理主義だから。
颯太:薄情だな。
朝美:でしょ? ……だからさ、忘れてね。
颯太:……。
朝美:私のあと少しはさ、颯太が隣にいて幸せだけど、その後が心配。化けて出ちゃうかも。忘れろーって。
颯太:……巨乳の美女捕まえる。
朝美:えー?
颯太:料理も超できる女捕まえる。
朝美:えー? ……しんどい。
颯太:じゃぁ思ってもないこと言うんじゃねーよ、ばか。
朝美:……思ってはいるんだけどね。
颯太:……。
朝美:いつだったか言いそびれたじゃん。
颯太:ん?
朝美:颯太の処女作。『十月の朝顔』。あれの最後の方、好きだよ。
颯太:なんだよ急に。
朝美:『残される方が辛いから、だから前を向くために、僕は君を忘れて生きていく』
颯太:よくまんま覚えてんな。
朝美:ファンですからねー。あー、これだけは忘れないように、書いとこうかな。残される方が……
颯太:いいよ、そんなん書かなくて。
朝美:いーの。私の手帳なんだから。好きなこと書くの。
颯太:……はいはい。
朝美:私もね、忘れて生きてくれーって思うし、逆でもきっとそうする。
颯太:あんなん書かなきゃよかった。
朝美:えーなんで?
颯太:なんでも。
朝美:あー! 私の病気あんなの書いたからだとか、面倒くさいこと思ってる?
颯太:……。
朝美:図星だ。
朝美:あのねー、そんな事言ってたら脚本家の嫁みーんな死んでるよ?
颯太:ほっとけ。
朝美:……。
颯太:ね、旅行、国内にしない?
朝美:やっぱり?
颯太:うん。
朝美:飛行機も新幹線も怖いしなー。あー、鎌倉は? 車で行けるし!
颯太:運転俺だよね?
朝美:うん。
颯太:ちょっとキツくねーですか?
朝美:行きたいなー鎌倉。行きたいなぁー。
颯太:はぁ……。頑張りますかー。
朝美:やった。平日がいいなぁ。ね、来週は?
颯太:はぁ? はやくね?
朝美:善は急げって言うし! 持っていくものメモしなきゃ。
颯太:この間メモ用のアプリ教えてやったじゃん。あれ使えば?
朝美:あ、そっか。……ん、ねぇ。
颯太:ん?
朝美:ごめん、どのアプリだっけ……?
颯太M:彼女はどれがどのアプリなのか、時折認識できなくなっているようだった。
颯太M:ジメジメとした梅雨の始まり。彼女の左手、左足の麻痺がより酷くなった。
0: 季節・梅雨。
0: 早朝。朝美、ボウルを床に落とす。徐々に取り乱す。
0: 颯太、別室から起き上がってくる。
朝美:……っ。
颯太:大丈夫?!
朝美:あ、うん。ごめん、卵こぼしちゃった……。
颯太:朝飯いいよ、俺作るから。
朝美:……できるよ。
颯太:ん?
朝美:ちゃんとできる。
颯太:うん。
朝美:ダシに片栗粉溶かして、いっぱい混ぜて、それから……焼き方だって、覚えてる。
颯太:うん。
朝美:……教えてもらったの、全部覚えてる。
颯太:うん。
朝美:……嘘。ほんとはそんなことも分からなくなるの。
朝美:手がね、動かないの。
朝美:自分の手なのに……。なんで?
颯太:朝美……。
朝美:なんなのこれ。
颯太:朝美、ちょっと落ち着いて。
朝美:なんで、落ち着いてなんて言えるの? 動かないんだよ? 足も手も!
朝美:明日、もうホントに全部動かなくなっちゃうかもしれないんだよ?
颯太:……ごめん。
朝美:もう、いや。
颯太:……。
朝美:このまま私全部動かなくなって、颯太のことも全部忘れて、私が私じゃなくなって。
朝美:それで、死んじゃうんだよ。先に。
颯太:朝美……!
朝美:お母さんからも連絡あったでしょ?
朝美:私たち結婚して間もないし、私みたいなの背負う必要ないって。
颯太:朝美!
朝美:私がいなくなった後も颯太は生きなくちゃいけないんだよ?
朝美:嫌なの。私、きっと一人で何も出来なくなる。
朝美:颯太にいっぱい、いっぱい迷惑かけて、それで颯太のことも、全部忘れて。
颯太:朝美!
朝美:……。
颯太:手が上手く動かせないなら一緒に作ればいいし。
颯太:俺だって、べろんべろんに酔ってパンツで寝転んでるような変なとこ見られてる。
朝美:そんなの……。
颯太:元々料理のできない女と、料理ができる男の二人じゃん俺ら。
颯太:俺のことなんていいように使いなよ。合理的にさ。
朝美:……そんなの、できないよ。
颯太:売れない脚本家が病気の嫁放り出してみろ。世間がなんて言うか。
颯太:だから、朝美が嫌だって言っても一緒にいるし。俺のために。
朝美:なにその言い方。
颯太:こうでも言わないと納得しないかと思って。
朝美:……私、颯太のことも忘れちゃうんだよ?
颯太:いいよ。
朝美:先に死んじゃうんだよ?
颯太:うん。
朝美:うんって……そんな簡単に言わないでよ。
颯太:だってさ、俺ら誓ったじゃん。
颯太:健やかなるときも、病めるときも、死が二人を分かつまで、って。
朝美:……。
颯太:そう言って一緒になったんじゃん。
朝美:……うん。
0:間。
颯太:……落ち着いた?
朝美:ううん。
颯太:えーー。
朝美:……ごめんね。ごめんね。
0:間。
0: 季節・夏。
朝美M:夏。私は自宅での生活が困難になった。
朝美M:病室の冷気が身体に張り付いて、夏らしさなんてこれっぽっちも感じない。
朝美M:明日か、明後日か、それともこれを思っている次の瞬間か。
朝美M:私は颯太を忘れてしまう。そしてそのまま死んでしまう。
朝美M:なんて薄情な女なんだろう。
朝美M:料理もへったくそで、気も強くて、挙句の果てに颯太を残して死んでしまうなんて。
朝美M:なんてダメな女なんだろう。
朝美M:こんな私を愛してくれて、ありがとう。
朝美M:伝えたいありがとうは山ほどあるのに、それを伝えてしまったら、きっと颯太は私のことを忘れられなくなるだろうから。
朝美M:だから、伝えないまま、忘れてしまうことにした。
朝美M:これが颯太の描く脚本だったなら、きっと私は手紙か、ボイスレコーダーに彼へのありがとうを、ありったけ詰め込むのだろう。
朝美M:でも、私は薄情な女だ。
朝美M:安い呑み屋で口説かれたことも、
朝美M:春の鎌倉も、一緒に作っただし巻き卵の味も。
朝美M:超低気圧を纏った不機嫌な颯太も。
朝美M:べろんべろんに酔ってパンツで寝ていた颯太も。
朝美M:忘れてもいいよって泣いてくれた颯太も。
朝美M:ぜーんぶ忘れる、薄情で合理的な女だ。
朝美M:そんな女のことなんて忘れて生きてほしい。『十月の朝顔』のあの主人公のように。
朝美M:あれを書いたから私が病気になったんじゃない。
朝美M:あれを書いたあなただから、きっと私を忘れて前を向いて生きてくれるから。
朝美M:だから私たちは巡り逢ったんだと思う。
0: 朝美、手帳をめくる。
朝美M:『残される方が辛いから、だから前を向くために、僕は君を忘れて生きていく』
朝美M:『十月の朝顔』 鈴木颯太
0:間。
颯太M:朝晩が冷え込み、秋を感じるようになった十月。
颯太M:彼女は「彼女」ではなくなった。
0: 季節・秋。
0: 颯太、病室へ入ってくる。
颯太:どう?調子は?
朝美:……。
颯太M:残された時間はあとどれくらいだろうか。
颯太M:安い丸椅子をベットの隣に置き、そこに腰掛ける。
颯太M:そして、何度目か分からない自己紹介をする。
0:間。
颯太:おはよう。
朝美:……。
颯太:俺は、鈴木颯太。
颯太:職業は売れない脚本家。得意なことは料理。
颯太:君は、鈴木朝美。俺の奥さん。
颯太:合理主義で要領がよくて、稼ぎも文句なしの、元キャリアウーマン。
颯太:好きなものは。
朝美:だし巻き……。
颯太:朝美?
朝美:颯太の作った甘いだし巻き卵。
颯太:……。
颯太:……うん。
朝美:……。
颯太:朝美? 分かるの?
朝美:……うん。
0:間。
颯太M:君は、鈴木朝美。俺の奥さん。
颯太M:好きなものは、「俺の作った」甘いだし巻き卵。
颯太M:一瞬だけ戻った「彼女」の手を握り、ただ泣いた。
颯太M:十月に咲いた朝顔が冬を越えることは、なかった。
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/: 『十月の朝顔』 完
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